ナポレオン・ホイール(日本語ルールなし)
※『ナポレオン・ホイール』は前作から、マップやカウンターに大きな変更を加えない形での再版です。
【内容物】 マップ4枚、駒560個、シリーズルールブック1冊、ゲーム専用ルールブック1冊、プレイ補助シート20枚、リソースカード5枚、カードデッキ2個(50枚×2)
【プレイ人数】 2人(推奨)
【プレイ時間】 1時間
【難易度】 ★★★★(上級)
【推奨対象年齢】 15歳以上
1805:ドナウ戦役シリーズⅠ
1805年10月~12月のウルム戦役からアウステルリッツの戦いをテーマにした4in1会戦級ウォーゲーム
ナポレオン軍が突如ドナウ河畔に姿を現したことは、オーストリア軍司令官マック将軍に大きな衝撃を与え、彼は翻弄されて有効な行動を取れなくなりました。
1805年10月、ナポレオンが展開した有名な「ホイール(旋回)」機動-ギュンツブルク、エルヒンゲン、ウルムをめぐる戦役は、1枚のフルサイズマップに収録されています。
ナポレオンはオーストリア軍が南および東へ脱出する経路を巧みに遮断。その一方でマックのもとには、「フランス国内で革命が勃発した」という誤った情報まで届けられていました。やがてフランス軍はウルムを陥落させ、1万人未満の損害で42,000人ものオーストリア兵を捕虜にします。そして、それからわずか30日後にはドナウ河を一気に下り、ウィーンを占領することになります。
首都を失ったにもかかわらず、オーストリア皇帝フランツは降伏を拒否しました。皇帝はクトゥーゾフ率いるロシア軍とともにボヘミア方面へ退き、オルミュッツではブクスホーヴデン率いる第二のロシア軍を伴ったロシア皇帝アレクサンドル1世と合流します。
11月下旬になると、急速な進撃を続けてきたフランス軍は戦線が伸びきり、食料も補給物資も不足していました。オーストリア・ロシア連合軍が大軍をもってアウステルリッツ西方の丘陵地帯へ進出すると、ナポレオンはあえてその動きに乗ります。
彼は自軍に、士気を失い、恐慌状態に陥って退却しているかのように装わせました。
1805年10月9日~15日
ウルムの戦い-ナポレオンの「ホイール(旋回機動)」
マック将軍の作戦は、ドナウ河を渡ってナポレオン軍の無防備な連絡線を攻撃するというものでした。そのため兵力をウルムに集中させ、キーンマイヤーにも攻撃を支援するため自軍との合流を命じていました。ウルムの戦略的重要性について、マックの判断そのものが間違っていたわけではありません。18世紀以来の戦略思想に従えば、ウルムを確保することは戦略的な優位を意味していました。この地点を拠点とすれば、補給線を断たれることなく、どの方向へも軍を動かすことができると考えたのです。しかし、その考え方に潜む重大な欠陥を明らかにしたのが、ナポレオンによるウルム包囲の「ホイール(旋回機動)」でした。18世紀であれば、このような作戦は不可能だったでしょう。当時の軍事思想には、今日でいう「作戦術(Operational Level)」という概念が存在しなかったからです。状況を一変させたのは、新たに整備された郵便道路網でした。本作ではギュンツブルク、エルヒンゲン、ウルムの戦いを、2枚あるフルサイズマップのうち1枚で再現します。ナポレオンはオーストリア軍が南および東へ脱出する経路を封鎖することに成功しました。その一方、マックのもとには「フランスで革命が勃発した」という誤った情報が届けられていました。マックはリース率いる部隊をドナウ河北岸沿いにドナウヴェルト方面へ向かわせます。これに対してネイはドナウ河北岸へ渡河し、エルヒンゲンでリース軍団を攻撃。フランス軍は高地を奪取してオーストリア軍を西のウルム方面へ追い立て、多数の捕虜を獲得しました。オーストリア軍の軽部隊の一部はなおドナウ河北岸に残っていましたが、マックの主力軍が完全に包囲されるのは、もはや時間の問題でした。
1805年11月11日
デュレンシュタインの戦い-クトゥーゾフの罠
モルティエは麾下の3個師団をドナウ河北岸に沿って展開させすぎていました。連合軍司令官ミハイル・クトゥーゾフは、モルティエにガザン師団を前進させるよう仕向け、罠へと誘い込みます。フランス軍は谷間でロシア軍の2つの部隊に挟撃されることになりました。窮地に陥ったガザン師団を救ったのは、絶好のタイミングで到着したデュポン師団でした。戦闘後、両軍ともに勝利を主張しました。しかしフランス軍は戦闘参加兵力の3分の1以上を失い、なかでもガザン師団の損害は40%以上に達しました。
1805年11月16日
シェーングラーベンの戦い-バグラチオンの後衛戦
バグラチオンは、退却する連合軍主力が安全に行動できる時間と空間を確保するため、後衛を任されました。夕刻、ウディノー率いる擲弾兵が攻撃を開始し、村を占領します。この戦闘でウディノーは負傷し、フランス軍は2,000人を失いました。バグラチオン軍も2,400人の損害を出しましたが、部隊の秩序を保ったまま撤退することに成功しました。
1805年12月1日~2日
アウステルリッツの戦い-プラッツェンとソコルニッツの戦い
オーストリア・ロシア連合軍は、戦場を見下ろす要衝プラッツェン高地を占領していました。しかし彼らの作戦は、敵を目前にしながら側面へ大規模な部隊移動を行うことを必要としていました。ナポレオンが意図的に弱体化させていたフランス軍右翼は、連合軍にとって格好の攻撃目標に見えました。戦闘開始当初、その攻撃によってフランス軍は苦境に追い込まれます。そこへダヴー麾下の兵力不足の師団が間一髪で到着し、ソコルニッツで激戦を繰り広げながら、その日の残りの時間、敵軍の進撃を食い止めました。一方、南方への増援のためロシア軍がプラッツェン高地から移動を開始すると、ナポレオンは彼らが手薄にした中央部へ第IV軍団を一気に投入します。ミロラドヴィチは突破口を塞ごうとし、戦いはいよいよ決定的な局面を迎えます。最終的にブクスホーヴデン指揮下のロシア軍左翼は湖沼地帯へと追い詰められ、壊滅的な打撃を受けました。オーストリア・ロシア連合軍の損害は約26,000人と大砲191門。これに対してフランス軍の損害は約8,000人でした。
OSG社製品はシュリンク包装がされていないため、外箱にスレや小さなへこみがある場合がございます。製品本体には問題ございませんので、ご了承の上、お買い求めください。
¥19,800
































